弘学館は、今から33年前の昭和62年に、松尾建設株式会社の創業百周年記念事業として、21世紀の日本を担う、指導者の育成を目指し「現代の藩校たらん」として開校いたしました。
当時は、県内の優秀な生徒の多くが県外の私立学校へ流出し、深刻な問題となっていました。
このような状況下、当時の佐賀県内の各界各層の方々から寄せられた強い要請に応え、東京大学をはじめとする難関大学を目指す生徒のための学校として、松尾学園 弘学館中学校・高等学校は誕生いたしました。
本校が開校してから30数年が経ちました。 私は、弘学館の母体である学校法人の理事長職を、創立時より勤めさせていただいてはおりますが、他に本業をもつ、いわば教育に関しては門外漢のひとりです。このような私が、なぜ私立学校の設立という大事業に関わるようになったのか、また弘学館の開校までにはどのようないきさつがあったのか。そのほか、学校誕生にまつわる<天><地><人>のめぐり合わせ、なかでも奇しき人間模様などについて、記憶をたどってみました。
先に、私には本業があると申しましたが、実は12の会社から成る「マツオグループ」と称する企業グループの経営にあたっています。このグループの中核企業が「松尾建設」という会社で、この会社の歴史が学園設立の契機となっておりますので、はじめに会社の沿革をすこしだけ紹介させていただきます。
松尾建設は、私の曾祖父にあたる松尾安兵衛によって、明治18年、土木請負を業とする「松尾組」として創業されました。創業間もなく総合請負業への転換を図り、土木はもとより鉄道、電力、建築関係への工事へとその規模を漸次大きくして行きました。この間、明治・大正・昭和とそれぞれの世代における筆舌に絶する歴史の変革のなかで、会社もまた幾多の変遷を重ねてまいりましたが、幸いにも現在は、西日本最大手の総合建設業者と呼ばれるようになっています。
また、九州、沖縄一円はもとより、関東、中京、関西、中国、四国の各地方にも進出し、その主要都市には支店・営業所を設置するまでになっておりますが、本社は一貫して佐賀県内に置き、地場を支える企業の一つとしての矜持をもって、これまで歩んでまいりました。
この松尾建設が、昭和60年に創業以来100周年の大きな節目を迎えることになり、記念の意味でこれまでお世話になった地元の方々になんらかの形で還元したいと考えたことが、そもそもの発端でした。会社も100年の長きにわたり、工事関係をふくめ地元にはいろいろとお世話になっていたし、こうして無事100周年を迎えられたのも地域の皆様の暖かいご支援、励ましがあったればこそで、その恩にいささかなりとも報いたいと思ったからです。
初めは、どこかへ寄附でもさせて頂こうかというぐらいの軽い気持ちでした。しかし、寄附金は一過性のもので形として残りませんので、私どもの感謝の気持ちが後世によく伝わらないのではないかと思い直して、社内に「百周年記念事業委員会」を設置し、いろいろな角度から検討を重ねました。しかしながら、なかなか記念事業にふさわしい決定的なものが出てこず、そこで県内の各界各層の方からも、ご意見を伺うことにしました。
多数の方々から、色々なお話を聞かせて頂くうちに、皆さんの今いちばんの関心事は教育にあるのではないかということが、おぼろげながら見えてきました。しかもそれは、教育一般論と個人的なものとに大別はされるが、そのいずれもが現状に対する不満と将来への危機意識を伴っているようでした。その悩みと不安を、小・中学高学年の子をもつ親の場合をとって最大公約数的に表現すると、「子どもの望んでいる大学へ行かせたいのだが、このまま県内の教育に任せていて大丈夫だろうか。」ということのようでした。
これはと思い、早速調査してみますと、県内の中学卒業生のうち、毎年300人以上が県外の高校へ進学し、その中でも男子の40~50人は、近県のいわゆる有名私立中高一貫校といわれている特定の3校に入学していることが判明しました。また、小学校階段からの3校の中学部への入学者数は、正確な数の把握はできていないものの、これも相当数にのぼるということも分かりました。県内優秀児童・生徒の県外流出の話は聞いておりましたが、実際にデータで検証してみますと、その数の多さに正直いって驚かされました。
流出の理由は県内高校の進学実績では全国競争に伍して、レベルの高い大学への合格があまり期待できないということのようです。そのようなことから、わが子の学力を少しでも高めたいという希望を持つ親たちは、しかたなく子供を手元から離して、わざわざ県外の私立学校へやっているのだという事実も、おいおい分かってきました。 もし仮りに、県内にそのような学校があれば、現在の進学適齢期の子とその親にとっては勿論、県民の将来にとっても、どんなに幸せなことか・・と思いめぐらしたのは、ごく当然の帰結でありました。しかも、郷土の英才のみならず、日本全国の英才をも佐賀に集め、この地で教育すれば、県全体が活気づき地域浮揚策の一環ともなり得るのではないかと、考えたのです。
かつての佐賀鍋島藩が幕末、明治維新にかけて多くの偉人を輩出した日本有数の技術先進地であったことは、よく知られています。また、その後も大正・昭和の前半に至るまで、佐賀から、わが国の中枢に数多くの人材を送り出してきたというまぎれもない事実もあります。これも当時、「学問教育は佐賀が第一」といわれ、全国から優秀な若者たちが集まってきたという藩校「弘道館」の存在と、その伝統の流れを汲み「教育県・佐賀」とまでいわれた教育熱が、脈々と受け継がれていたからでした。しかし、戦後の教育改革は、残念ながら本県教育の質的低下をもたらし、中央に対する人材供給県としての役割を喪失させてしまい、そしてこれに相呼応するかのように、産業・経済の分野でも地盤沈下の現象が表れるようになってきました。

在りし日の香月知事
昔日の栄光を甦らせるためには、かつての弘道館に匹敵するような”現代の藩校”こそ必要なのではないか-という想いが突然脳裏をかけめぐりました。英才校の設立による教育県佐賀の復興、これほど、私どもがめざす報恩事業にふさわしいものはありません。だが、はたして一企業にそんなだいそれたことが可能であろうかと、なんども自問を繰り返しました。
そこで、いの一番に、当時の香月佐賀県知事にご相談をすることにいたしました。取るものも取り敢えず知事室を訪問し、心をこめて説明の後、ご意見をお伺いしたところ、意外にも知事は直ぐさま非常な賛意を示されました。
そのうえ、「これは佐賀にとってたいへん大事な事業です。松尾さん、よくぞ決心をして下さった。」とお礼の言葉をいわれた時は、かえってこちらの方が恐縮してしまいました。加えて知事は、その場で学校設立についての全面的なご支援を約束して下さいました。
さっそくその足で、井本副知事(当時)のお部屋をお訪ねして、ご相談をいたしました。副知事も賛成されて、「せっかく英才校をつくるなら、県内だけを対象とせず、全国から生徒が集まってくるような学校にして下さい。」とのありがたいご忠告を頂戴いたしました。
非公式ながら、知事と副知事のありがたいご賛同を得、ここに晴れて100周年記念事業の決定をみたのでした。
「現代の藩校」を創るという目標だけは定めたものの、具体的な方策があるわけでなく、あるのは熱い気持ちばかりで中身はいっさい白紙の状態です。そこで、頭のなかでじっくり理想の学校像を練りあげ、ようやくできあがった基本理念は、次のようなものでした。
■新しくつくる学校は、環境、施設、教育内容のいずれをとっても今までにないような新しいスタイルの学校でなければならない。
■来るべき21世紀の日本のリーダーとなるべき有為な人材を養成し、優秀な人物を輩出する学校でなければならない。
■指導者の資質として求められる幅広い教養、豊かな精神性、優れた国際性などを十分涵養し、身につけさせる学校でなければならない。
■自ら考え自ら行動する自立心や、柔軟にものごとに対応できる創造性、ものごとに常に前向きに取り組む積極性を、伸ばし育てる学校でなければならない。
■子供たち誰しもが望む、よりレベルの高い大学に、全員が余裕をもって合格できるような、緻密で効率のよい進学指導のできる学校でなければならない。 次に、この理念を現実のものとするために、学校の制度上の面と教育方針において、具体的にどのような形として、現せばよいかと考えました。
そこで”教育の柱”として、「中高一貫教育」、「全寮制」、「国際性涵養」の3項目を設定しました。その内容は、以下の通りです。
1.本学園は、資質・能力に優れた男子生徒のみの学校で、中高一貫教育の導入により、6年間の成長発達過程に応じたカリキュラムを編成し、効率のよい学習計画、指導を通して、全員がゆとりをもって希望する大学・学部への進学が可能になることをめざす。
2.本学園は、社会の良き指導者を育成するために全寮制を採用し、規律ある学寮生活を通して社会人としてのマナーやルール、自立自制の習慣と人間的な思いやりの心を身につけさせることをめざす。

学園完成予定図
3.本学園は、真の国際人養成のために、寮生活・クラブ活動等の日常の場での外国人との接触や、定期的な国際文化教養講座を通して、外国人の考え方、外国の伝統習慣を学ばせることにより、生きた国際感覚の涵養を図ることをめざす。
このうち、中高一貫教育と国際性涵養の必要性については、だれにも異論はありませんでしたが、全寮制の採用については、内部でも意見が分かれました。なぜならいわゆる進学校といわれている学校には寄宿舎はあるが、中1から高3までの6年間、寮生活を送る全寮制の学校は皆無だったからです。
それにはそれなりの理由があるはずで、まず全寮制自体がはらむ、問題点を列挙し、その一つひとつに検討を加える必要があります。そこで、いろいろな要素を取捨選択、整理した結果、最後に残った大きな問題が次の3つでした。
第一に、12才から18才までの間の心身の発育段階上に、著しい差のある子供たちを、いかにして指導していくかという生活管理上の問題。つぎに、通学できるのに、わざわざ寮に入れてまでも新設校への入学を希望する親が、果たしているのかという生徒募集上の問題。最後に、将来的には1,000名を超すと思われる寮生を、収容するための施設・設備に要する膨大な費用を工面しなければならないという資金上の問題。 この三つの問題から、全寮制を採り入れることへの悲観的な意見が大勢を占めはじめました。しかし、前述の学園設立の基本理念を具現化するためには必要欠くべからざる制度であるということ。そのうえ、学校生活と学寮生活を有機的に結合させ、緊密に連係させることにより学力の一層の増進を図れるということで、熟慮のすえ最終的に導入に踏み切りました。あとから考えますと、これが結果的には大成功でした。
こうして教育のコンセプトができあがりましたので、いよいよ現実の学校づくりのためのプロジェクト・チームを社内に編成しました。しかしながら、建設会社というのは校地の造成工事や校舎の建築工事を請負った経験は数多くあっても、学校そのものを創るという仕事をした経験がある者は1人もいません。そこで、土地の選定については、不動産部門、校地プランおよび施設・設備のレイアウトは設計部門、費用の見積りは積算部門、資金調達計画は経理部門、法規のチェックや資料の収集・分析および総合計画は企画部門と、各々役割りを分担し知恵を絞ることにしました。
すべての面で、既成のやり方を踏襲するのではなく、一から最善、最良の方法を考え出すようにとの指示を受けたところに、みんなの苦労があったようです。なかでも、計画のポイントともいうべき、学校規模と収支計画の策定については難渋し、暗中模索に作っては壊すことの連続でした。
こうして、各部門内での専門的な検討と、全体での総合的なチェックをいくどとなく繰り返しても、計画用地が具体化しないので、学校の全体像が現われて来ず、みんなの顔にやや憔悴の色がただよいはじめた頃に、突然の朗報が飛び込んできました。
収容人員1,000名を超す全寮制の学校をつくるためには、広大な敷地が必要です。それもどこでもいいというわけではなく、めざしている条件のハードルの高さによりおのずと場所が限定されてくるところに、土地探しの難しさがあります。条件に適う理想の土地を見つけ出すことができなければ、学園設立の基本理念など絵に画いた餅にすぎません。それゆえに、校地確保が最優先の課題であり、最大の関門でもありました。
松尾商事不動産部の情報によれば、佐賀市の北端で、県のほぼ中央部に位置する背振山系・金立山の麓に、恰好の土地があるということです。その周辺一帯は県立の自然公園地域に指定されているほど、自然の環境は申し分ないうえに、高速道路のインターからも5分以内の至近距離にあり、交通のアクセスのうえからも理想的であるということでした。しかも、校舎・グランドはもとより、学寮建設の十分可能な広さもあるという、願ってもないような話でした。
さっそく、現地へ車を走らせますと、市街地からほぼ15分で目的地へ到着しました。そこは金立町の閑静な山里の一角で、家並みが途切れたところから、やや勾配のきつい坂道がはじまり、その先の小高い丘陵地一帯が候補地だということです。一見して、その自然環境のすばらしさに打たれました。
土地の後背部には、徐福伝説で知られる金立山の深い山襞が迫り、全山を覆う樹々の濃い緑に今にも吸い込まれそうでした。丘の上まで登りつめ、視線を前方に転じると、眼下見渡す限りに、佐賀平野の広大な田園風景が展がっています。さらにじっと目を凝らすと、正面に有明海の水平線と島原・雲仙の山々が、霞のかなたに浮かんでいます。なんとも雄大な眺望でした。
朝夕、このような景色に接していれば、気宇壮大な人物になれないはずがありません。人の一生において最も重要な、人格形成の時期にあたる中学・高校時代を過ごさせるには、最高の環境でした。それに、眼前には高速道路を行き交う車も見え、決して山中の辺地という感じではありません。
あとに、この地を訪れた方みなさんが口々にその環境のすばらしさを褒めて下さいますが、そのつど私は「学校の立地条件だけは、初めから全国一だと思っています。」と応じています。
そのうえに、この金立という場所は、日本を代表する精神文化の一つといわれる「葉隠」の発祥の地でもありました。「葉隠」は、江戸時代、鍋島35万7,000石の佐賀藩において、歴史や教訓、伝説、実話などをまとめて、いわゆる藩士の修養書としたもので、今や郷土を代表する古典であるばかりでなく、日本人の伝統的精神文化を知るうえでの貴重書の一つとして注目されています。この「葉隠」の語り手、山本常朝が庵を結んで隠棲し、己の思想を後世に伝えたのが、何をか言わんこの金立山麓の地だったのです。
佐賀の歴史上からも由緒ある、この葉隠ゆかりの地ほど、現代の藩校たらんとする学校を、設置するにふさわしいところは、ありませんでした。天運を感じた私は、学校設立の地はここをおいて他にはないと固く決め、ただちに買収交渉を進めるよう指示しました。
私の思いが天に通じたのか、幸いにも地権者の方のご理解と関係官庁のご協力が得られ、交渉、手続きもスムーズに行きました。こうして、念願の学校用地を手に入れたのは、昭和59年もおしせまった、12月の暮れのことでした。
校地確保により弾みがついたのか、正月休みを返上しての作業も捗り、基本構想原案のほぼ完成をみたのが、まさに創立100周年目にあたる翌、昭和60年2月のことでした。それから程なくして、「学校設置計画基本構想」を所轄庁である佐賀県に提出、学校設立の固い決意を表明し、これに対するご支援を公式に要請いたしました。
翌日、本社会議室において、つめかけた多数の報道関係者に対する記者会見を行いました。事業概要を説明後、開校は昭和62年4月の予定で、生徒は中学・高校同時募集、校名は藩校弘道館の名にちなんで、「弘学館」とすることなどを発表しました。
翌日の朝刊では各紙とも大々的に取りあげたなか、さすがに地元紙は一面トップの扱いでしたので、とりわけ県民各層のみなさんに大きな反響を呼んだようです。まさに老若男女を問わず、多くの方から賛同と激励の電話、手紙を頂戴し、私どもの考え方が決して方向違いでなかったことが改めて確認でき、いっそう意を強くした次第でした。
社会的認知も得られましたので、グループの松尾商事内に「弘学館設立準備室」を設置し、準備委員を正式に任命することにしました。室長に私の弟で当時商事の企画室長をしていた松尾大二郎を、主任にはその部下の熊谷二郎君をまず決め、これ以降は設立準備に松尾商事が大々的に係ることになりました。
次に、教育の専門家として、長い間教育庁の企画参事室で公立学校の新設に携ってこられ、最後は高校の校長としての現場経験もお持ちの田原碩孔先生を、全体的なまとめ役である事務局長として迎え、万全の体制を整えました。
このようにして、組織もでき、スタッフも揃いましたので、あとは開校へ向けて一路邁進するのみとなったのですが、いざ出港となると一抹の不安がありました。それはいかに、新しい発想で、新しい方式の学校を自分たちの手だけで創りあげようとはいうものの、意気込みだけでは行かないものがあることを、感じはじめていたからです。
それを一言に要約すると、「中高一貫教育のエッセンスとは何か」ということに尽きます。世に中高一貫校といわれている学校は星の数ほどあっても、私どもがめざしているのはその頂点を極めることです。しかしながら、われわれの周囲には誰もそのノウハウを知っている者がいなかったのです。

来佐された勝山先生
こうして空しく時が過ぎ、焦燥感を深めていた矢先に、天運のしからしめるものとしか思われないないような、勝山正躬先生との邂逅がありました。勝山先生は当時、日本一の進学校である灘校の校長職を15年以上も勤められており、中高一貫教育の生みの親ともいうべき存在の、私どもからみればまさに「教育の神様」みたいな方でした。その勝山先生にふとしたことから、お目にかかる機会を得られたことは、僥幸という以外のなにものでもありませんでした。
初めてのお目通りで一方的な話ばかりをしたにもかかわらず、先生は真の教育者にふさわしい誠に心の寛いお方で、じっと私の話を聞かれた後「灘を目標とし、灘に追いつき追い越す学校が出てくることは、日本の教育にとってよろこばしいことです。私にできることであれば、どんなにでもお役に立ちましょう。」と思いもよらぬことを仰って下さいました。先生の暖かいお言葉に勇気づけられ、その場で、本校の教育顧問として今後ご指導を頂きたいこと、近々にも私どもの学校建設計画用地をご視察頂きたいことなどを、お願いして別れました。
この年の6月、わざわざ遠路佐賀まで足を運ばれた勝山先生には、早速学校建設計画用地をご視察され、その後に、教育内容全般にわたり数々の貴重な助言をして頂きました。そして、「あなたのような方たちがつくられる学校なら、心配はありません。きっとうまくいきますから、自信をもって進めて下さい。」とまで言って頂きました。この言葉を聞いて、私たちが一度に勇気づけられたことは言うまでもありませんでした。
勝山先生の言葉にはいつも千鈞の重みがありましたが、私にとって特に忘れられない一言があります。それは私が、「いつになったら、灘みたいな進学実績を上げられる学校になれるのでしょうか」ということを何気なく聞いた時のことです。
いかに勝山先生といえども、このような荒糖無稽の質問に対して、明確な答を出せるはずがない。きっと曖昧に、言葉を濁されるものと思っていますと、即座に、「松尾さん、いい子供が集まれば、直ぐにもなれますよ。」と明快に言いきられました。
いい子供を集めなさい-余りにも単純すぎる先生の示唆に、その時は面食らいましたが、後で考えれば考えるほどこの言葉の持つ意味の奥が深いこと、正鵠を得ていることが身にしみて分かりました。このことは、その後の私の学校づくりの過程において最大の指標となりました。
あんなにお元気だった勝山先生も、平成元年の夏に突然ご逝去されました。今は、お会いしてご指導を受けることは叶いませんが、私たちにとってはいつまでも心の師であり、恩人であることに変わりはありません。私の大きな心残りは、初めての入学式で祝辞を頂戴した、あの一回生の子どもたちの、大学入試での健闘ぶりを、お見せできなかったことです。
こうして漸く、開校への糸口らしきものは掴めたのですが、まだやらなければならないことは山積していました。 まず肝心の、学校設立後の核となるべき新校長が決まっていません。われわれがめざしているのは、いまだかってないユニークで新しいタイプの学校ですから、その舵取役も自ずからユニークで新しいタイプの教育者でなければなりません。
先に示しました「教育の3つの柱」のどれをとっても、いざ現実にやるとなれば、ことはそう簡単ではありません。思想と現実、理論と実践の間にある矛盾と問題点を、一つ一つ解決していかねばなりません。そのうえに、学校全体の牽引車的役割は言うに及ばず、新設校の顔としての対外PR活動、英才児童、生徒の発掘、勧誘を含む募集活動等を、十分こなせる実行力と感覚を兼ね備えた人でなければなりません。
問題は、このような条件を満たすような人が果たしているのかどうかということです。私は、教育者には希少ないわゆる企業的発想を持ち合わせ、しかも実践教育に経験、実績のあるということを判断基準としました。
そこで、ひそかに白羽の矢を立てた人が、当時52才、県立高校の最年少校長として活躍されていた渋谷敏明先生でした。渋谷先生は一教員時代から、その活動力と感性で、異色・型破りの教師として名を馳せておられた人です。しかも、将来の県教育界のリーダーとして嘱望されていた方なので、本人よりも周囲への根まわしが先決だろうと考え、まず知事、教育長にお話をしました。
こうして外堀を埋めた後、ご本人への説得を開始しましたが、一回目はものの見事に断られました。本人としては公教育に対する使命感や、勤務中の学校の校長職を在職わずか1年で退くことへの心中忸怩たるものがあり、誘いを固辞されたようですが、これぐらいで私の一念は変わることはありません。逆にその責任感の強さに打たれ、私の思いは強くなる一方でした。
懇請すること再三の後、私の熱意が通じたのか、先生が根負けされたのか分かりませんが、しばらくたって承諾の返事を頂いた時は、思わず「してやったり」と、会心の笑みが浮かぶのを止めることができませんでした。なぜなら、渋谷先生を校長として迎えられたことで、私の理想とする学校づくりの7割方が完成したということを、はっきりと確信できたからです。
次に、校長の良き女房役として補佐をして頂く教頭には、海軍兵学校出身の森永津代次先生を招請しました。常に温厚で、冷静さを失われない森永先生は、猛進型の校長とは好対照な性格でしたが、それがかえって良いコンビとなったようです。
1年前から準備室事務局長に就任されていた田原先生には、教育の行政、実務にわたる専門家として、われわれに欠けたるところを常に補って頂いていましたが、なかでも教員の募集、採用については最もご苦労をおかけしました。お陰をもって優秀な教師陣も集まり、田原先生には開校後、学園の重鎮として弘学館初代学館長に就任してもらいました。
それから忘れてならないことの一つに、学校法人と学校設置の重要な認可申請業務があります。この仕事は、準備室の松尾室長と熊谷君が担当しました。経験は皆無、知識はゼロに等しいところからのスタートでしたので、足かけ3年にもわたる複雑で煩雑な申請業務の間には、ひと知れぬ苦労もあったようですが、最後までよく頑張ってくれました。
こうして、多少の紆余曲折はありましたが、全員の努力と県ご当局の特段のバックアップにより、待望の学校法人寄附行為認可通知を頂くことができ、ようやく学校設立が現実のものとして迫ってきました。

造成工事の開始
さて、金立の原野に槌音も高く、待望の敷地造成工事に着手したのが、開校予定日1年前の昭和61年4月28日のことでした。第1期校舎建築工事を開始したのが、それより3カ月後の同年7月。手ぐすねを引いて待っていた、松尾建設土木工事部、建築工事部社員の総力を挙げての突貫工事は順調に進みました。
工事の進捗状況を横目に見ながら、夏休みを利用しての学校説明会を、県内はもとより九州各地の主な都市で開催しました。勝山先生の講演のおかげでどこの会場も他の教育関係者の耳目を驚かすほどの入場者が集まり、幸先のいいスタートとなりました。

完成なった新校舎
すべてのことがほぼ軌道にのったと判断し、あとはすっかり先生方にお任せしていたのですが、ただ一つだけ反対を押し切って、敢えて私の意見を通したことがあります。それは初めての生徒募集となる第1回入学試験日をいつにするかという問題でした。
私は2月8日を主張しましたが、これには全員が反対でした。なぜならその日が、隣県の有名私学の試験日と重なるからで、「優秀な子供たちが受けにこないだろうし、受験生も激減する。いずれにしても、最初にしては冒険すぎる。」というのが反対の理由でした。
私は、最初だからこそ敢えてやる理由があるのではないかと全く逆の発想をしました。なぜなら、ここで勝負しとかないと2回目にはすでに結着がついてしまっているからです。その学校とは、いずれ競合することが宿命づけられているのなら、胸を借りるのは、早いほうがよい。同じスタートを切るのなら、例え失敗に終わろうとも、少しでも高い地点からの方がよいと思ったからでした。
まもなく、入試日を発表し最終責任は自分がとると決めてはいたものの、新設校の初めての試験は定員割れが常識だとも聞いていましたので、やはり内心は不安でした。
昭和62年の2月8日は、一昨日の大雪が信じられないぐらいの快晴で、まさに何10年ぶりかというほどの陽気でした。冬はまだ続いているというのに、金立山一帯を吹く風は爽やかで、まるで一足飛びの春の到来を思わせるかのようでした。
この日に、完成したばかりの真新しい校舎を会場にして、「弘学館」の第1回目の入学試験が実施されたのですが、中高合わせて180名の定員に、北は宮城県から南は沖縄県に至るまでの1,000名以上の受験生が殺到し、中学5倍、高校6倍の新設校としては稀に見る競争率となりました。
校門から続くホルト並木の坂道を埋め尽くした、受験生の群れを眺めつつ、誰もが感無量でした。希望に燃えて集まってきた、子供たちの輝く瞳を見た時、私はこの学校の将来を確信し、そっと独りその場を離れました。
帰途、金立へ向かって延々と並ぶ車輌の列を横目に見ながら、車中より渋谷校長先生へ電話を入れました。「合格者の数は、先生におまかせします。たとえ定員を割ろうとも、高い理想を追い求めて下さい。経営のことはいっさい心配なさらないで結構ですから・・・。」
昭和62年4月7日、弘学館は中学100名、高校62名の最初の新入学生を迎えて、念願の開校を果たしました。 入学式の日、私はこみあがってくるものを押さえながら、162名の新入生に向かって、「今まさに、諸君は、1枚のまっ白なキャンバスに、何を描こうかという瞬間である。」というフレーズを歓迎挨拶の冒頭の言葉としました。これは、私の偽らざる気持でした。
学校という容れ物は造れても、それから先の事は私の力の及ばぬところで、学校に生命を吹き込み、魂を入れるのは、教師であり、生徒であるからです。そしてなににもまして、新しい学校の校風と評価を決定づけていくのは、ここに並んでいる第1回入学生しだいなのです。
弘学館の第一歩をどう踏み出すかは、彼等自身の手に託すしかないのです。
時は移って平成2年の早春、弘学館は初めての卒業生を送り出しました。3年前、高等部に入学してきた、あの第1期生たちです。
大学受験の試練に立ちむかうために、金立の杜を旅だっていく総勢61名の顔には、一種の悲壮感さえ漂っていたということです。なぜなら、鳴りもの入りで開校した弘学館の最初の成果がいま問われようとしているのだという重圧感が、彼等ひとりひとりの肩にずしりとのしかかっていたからです。
まもなく、各大学の合格発表が始まりましたが、学校側の期待に反して、その結果にはなかなか厳しいものがありました。「やっぱり大学入試は甘くないぞ・・」という感想が、教師のあいだからも洩れはじめてきました。
そして3月10日になり、注目の東京大学の合格発表日がやってきました。本校からの受験者は全部で10名です。 「初めての挑戦で、2~3名いけば快挙だろう。」「いや、せめて1人だけでも合格してくれたら。」
現在はかなりの合格実績がある有名な進学校でも、初めての卒業生からはひとりも東大合格者を出すことができなかったという神話もあり、だんだんと悲観的な空気につつまれてきたろころ、やっと一報が入ってきました。受話器のむこうから、『合格者8名!』という大きな声がとびこんできたときは、一瞬信じられない気持ちでした。時を経ずして大歓声がわきあがり、校内は興奮の坩堝と化しました。
翌日からマスコミ各社は、”弘学館の奇蹟””弘学館旋風”起こる、などと報道したため、わが校は一躍全国の注目を浴びるようになり、さまざまな方々から賞賛の言葉を頂戴しました。しかし、この一連の騒動とは別に、卒業生の61名全員に、私は心の中でそっとお礼を言いました。なぜなら、彼等の一人ひとりが弘学館というキャンバスに、未来へかける大きな可能性を描いてくれたからです。
開校からすでに30数年の歳月が経過しました。光陰矢の如しというとおりの、あっというまの時間だったように思われます。今では、生徒総数約千名、教職員数160名以上の名実ともに中高一貫校にふさわしい規模・陣容となり東大合格者の数も300名を超えています。こうして当時のことをふりかえってみますと、感慨一入のものがあります。
古来より、大事を成すには、<天の時>、<地の利>、<人の和>の三つの要素が必要であると言われています。本校の場合幸いにも、この三つがひとつも欠けることなく上手くかみ合い、上々のスタートが切れ、現在も一応順調な歩みを続けていると言ってもよいかと思います。
しかしながら、私どもがめざす理想の教育のゴールに到達するまでには、まだ長い道のりがあります。かっての佐賀鍋島藩 藩校「弘道館」に匹敵する”現代の藩校”たらんには、まだ前途遼遠といってもよいでしょう。そのためには、これからも一歩一歩、険しい山を登りつめて行かねばなりません。
この30有余年の間に、なんらかのかたちで弘学館の設立に関与された人のうち、すでに物故された方、あるいは退職された方も、少なからずいらっしゃいますし、もちろん現在に至るまでご活躍中の方々もたくさんおられます。こうした多くの皆様に、心からのお礼と深い感謝の意を献げつつ、筆を擱かせていただきます。